「二足の草鞋」をはく弁護士が特集されていました。

ここで紹介されていたのは、僧侶、プロレスラー、プロボクサーの3人。
ちなみに、みちのくプロレスの大柳錦也選手は土地家屋調査士です。(^^;

二足の草鞋って、専門家としてどうなの?という声もありますが、
少なくともこの3人の生き様は迫力ありますね。

刺激を受けました。


【弁護士がプロボクサーという草鞋も履くワケ】

 弁護士のほかにもう一つの「仕事」を持つ「二足の草鞋をはく弁護士」。探してみると、僧侶や神主、プロスポーツ選手などの分野に、少数ながら存在する。

 彼らはなぜ二足の草鞋をはき、ただでさえ激務である弁護士業務とどのように両立させているのか。今回は3名の新司法試験世代の「二足の草鞋弁護士」に登場してもらった。

 トップバッターは曹洞宗大光寺(滋賀県守山市)の前住職の次男で、自身も僧籍を持つ円城得寿弁護士(65期)。実家のお寺は円城弁護士の兄が継いでいる。幼少の頃から、両親に「人の役に立つ仕事をせよ」「何かお寺に関わることもせよ」と言われ育った。高校生で「人の役に立てて、弱者を救える仕事」だと考えて弁護士を志し、早稲田大学法学部に入学した。

 しかし入学直後からESSの活動に没頭し、「4年になってあわてて司法試験の勉強を始めたが、時すでに遅し。これ以上親に経済的負担をかけたくなかった」ので、大手電機メーカーに就職。ここで長年経営企画の業務に携わり、長い間若き日の志をすっかり忘れていた。

■ 「御仏のお告げ」に導かれ、52歳で弁護士に

 だが、47歳の時、訪れたローマ人博覧会でそれを思い出した。円城弁護士は作家・塩野七生氏のローマ人シリーズのファン。なのでこの博覧会にも足を運んだのだが、そこで古代ローマ人の墓標に、その人が存命中に成し遂げたことが、4コママンガ風に刻まれていた。

 その時、「自分は墓標に一体何を刻めるのかと考え、忘れていた志を思い出した」という。弁護士になった動機を聞かれると、円城弁護士はこの体験のことを「御仏のお告げ」と説明している。

 ただ、実際に実行に移すことが出来たのは「妻が理解してくれたおかげ」だという。円城弁護士の勤務先の電機メーカーには50歳からの早期定年退職制度があった。ロースクールに3年通い、司法試験に一発合格出来れば51歳で弁護士登録が出来る。

 仕事を続けながら桐蔭横浜ロースクールに通い始めるが、平日は19時からの授業3時間と、早朝2時間の合計5時間しか勉強時間を確保できない。勉強量の絶対的な不足を痛感し、1年半後、会社の長期休暇制度を使って休職、受験勉強に専念した。

 司法試験は1回目の受験で合格出来ないまま早期退職し、2回目で合格、当初構想から1年遅れで開業した。開業した場所は実家と同じ守山市内。即独である。「年齢を考えると早く独立したほうがいいし、即独した先輩弁護士に話を聞き、自分でもやれそうだと思った」という。

 開業から2年あまりが過ぎ、現在の業務の中心は離婚や相続、交通事故などの一般民事。ロースクールの教官の薦めに従い、開業時にホームページに思い切った投資をした効果で、ネット経由の相談依頼は順調に推移した。自分の地元で相談がしにくいからと、隣県から相談に来る依頼者もいる。

 加えて、「父が中学の教員を兼務する住職だったので、教え子の紹介経由の相談も少なくない。実家の寺の信用が大きなアドバンテージになっている」という。一方円城弁護士自身も、僧侶として実家の繁忙期にお経を上げたり、座禅会の手伝いをするなどの形で活動をし、「何らかの形でお寺に関わる」という両親との約束も守っている。

 今後、効果的な宣伝方法を考えて伸ばしたいと考えているのが、お寺関連の相談である。檀家とトラブルになったり、お寺自体を乗っ取られそうになったりと、さまざまな悩みを抱える住職は少なくない。「少なくとも専門用語や仏教界の慣習などについて、説明なしに通じるというだけでアドバンテージがある」という。

■ 旧試2回、新試2回の不合格の末に合格

 もう一つの仕事が弁護士としてのアドバンテージになっている円城弁護士とは対照的に、これから紹介する2人は、「好きなこと」と弁護士業務を何とか両立させていると言ったほうがいい。

 2人目はプロレスラーの仕事を兼業する川邉賢一郎弁護士(65期)。リング名は「竜剛馬」。見た目が似ていた剛竜馬をまねた。神奈川の名門・栄光学園から東大法学部、東大法科大学院既修コースを経て司法試験合格という経歴からは、挫折知らずのスーパーエリートを想像するが、実際にはかなりの紆余曲折があった。

 まず栄光学園での6年間は硬式庭球部に所属しながらレギュラーとは無縁。中学3年のとき、社会見学で裁判を傍聴したことをきっかけに弁護士を志し、東大法学部には現役合格したが、入学してみると同級生の優秀さに愕然とした。

 東大法学部は「上位3割はまったく別格」なのだという。ただ優秀なだけではなく努力もする。授業中に優秀な同級生が教官にする質問の意味が、何回か後の授業でようやく理解できるといった状態だった。

 2年時にドイツ語の単位が取得出来ず留年。司法試験は旧試を4年の時と翌年の2回受験したがいずれも不合格。心機一転、ロースクールで出直そうと考え、東大ローに進むが、卒業後に2度受けた試験はいずれも不合格。三振という現実とともに、地方公務員試験の受験資格の上限年齢も迫った。

 旧試、新試ともに2度ずつの不合格について、川邉弁護士は「その時は勉強しているつもりでいたけれど、ほかのことに時間をとられ、周囲からは圧倒的に勉強不足だと見られていて、実際その通りだった」と言う。

 その「時間をとられたほかのこと」の大部分を占めていたのが、プロレスである。高校時代、教室でプロレスごっこをやるのが最高の楽しみだったという川邉弁護士。東大にはプロレスサークルがなく、極真空手部に入部したが、2年になって一橋大学にプロレスサークルがあることを知り、「掛け持ちでは極真空手の指導者に失礼だと思い」、一橋のプロレスサークル一本に絞った。

 プロレスにはいわゆるプロテストのようなものはなく、プロレス団体の入門試験に合格することでプロになれる。川邉弁護士がユニオンプロレスの入門試験に合格したのは2005年。プロデビューは同年11月。東大の学部を卒業し、2度目の試験に挑戦していた時期だ。

 ロースクール時代はもちろん、新試験2回の受験中も家族に黙ってプロレス活動を続けていた。さすがに試験直前に試合に出ることは、ケガで受験ができなくなるリスクがあったので回避していたが、とても司法試験に合格できるような集中度で勉強をしていたとは言い難い情況だった。

■ プロレスは「クビ」になるまでやる

 2度目の新試験不合格を機に、団体に「必ず帰ってくる」と約束し、勉強に集中し無事合格を果たしたのが2011年。司法修習中は原則兼業禁止。最高裁に許可願いも出したが却下され、2013年に復帰した。ただ、弁護士業務との両立では、かつてのような練習量が確保できるわけもなく、現在の試合出場頻度は1カ月に1度程度だという。

 弁護士業務の方は、イソ弁として1年ほど事務所勤務をした後、司法修習同期3人と弁護士法人を設立、川邉弁護士は横浜の事務所担当だが、実質一人事務所を経営していると言っていい。現在は一般民事が中心だ。

 川邉弁護士は、自称「誘惑に負けやすく、すぐいい気になる弱い人間」。プロレスラーは、ともすると人から蔑まれる職業なので、「どこへ行っても先生、先生と言われていると、つい、いい気になるが、プロレスを続けていることで人としての平衡感覚を維持出来る」と話す。

 もっとも、そんな川邉弁護士を長年叱咤激励し続けた妻からは、「プロレスをやりたいがための言い訳だと言われるし、その通りかもしれない」。

 そのプロレス、いつまで続けるのか。「観客を呼べなくなれば、いずれ団体から引退を通告される日が来る。その日は自分が思うよりも早くやって来るはずで、その時がプロレスから引退する日」だそうだ。

■ プロボクサーになるために、弁護士になる

 最後はプロボクサーと弁護士という「二足の草鞋」をはく坂本尚志弁護士(現行62期)。坂本弁護士も福井県の名門・福井県立高志高校から1浪で東大法学部に進み、旧司法試験に合格して弁護士登録に至った、エリートを想像させる経歴だが、その紆余曲折ぶりは川邉弁護士の上を行く。

 漠然と弁護士を志したのは高校時代。弁護士を目指す同級生に影響を受けた。東大法学部では3分の1が国家公務員上級、3分の1が好待遇の民間企業、残り3分の1が司法試験を当たり前に目指す。その環境の中で漠然と旧試を受験し続け、3回目で合格。ここまではよかった。

 だが、ここで、なぜ自分は弁護士になろうとしているのかわからなくなった。そもそもそれ以前も、弁護士になる理由付けは時期によって変化していた。ある時期は「サラリーマンができないから」だったし、またある時期は「自分の実力次第で組織に縛られずに済むから」だったのだ。

 結局司法修習を1年遅らせ、この1年間はバイトとボクシングに明け暮れた。ボクシングとの出会いは高校1年のとき。高校がつまらなくなり、次第に登校頻度も落ちていく中でのことだ。

 手を焼いた母が学校の先生に相談し、ボクシングジムに通えと言い出した。素直に聞いたのは「行かないと小遣いをやらないと言われたから」。そんなきっかけで始めたボクシングに、すぐ夢中になった。ジムから「高校に行かないと試合に出さない」と言われ、登校も再開した。

 東大には体育会ボクシング部があったので迷わず入部。卒業後も出入りした。司法試験合格後の「空白の年」となった2007年9月、全日本の都予選で敗れたことで吹っ切れ、ようやく修習に行く気持ちになった。

 ところが、いざ修習が始まってみると、研修所での座学がつまらない。またもや「なぜ弁護士になるのか」という疑問が頭をもたげる。周囲が心配し、「実務修習になれば楽しいから」となだめすかしてくれたおかげで、修習を途中で放り出さずに済んだ。

■ プロボクサーと両立するための即独

 実務修習は大阪で、最初が弁護修習。この時の修習先が、一般民事から企業法務まで実に様々な案件を扱い、特に倒産に強みのある事務所だった。「指導してくれた弁護士がいい先生だったこともあって、ようやく弁護士の仕事のイメージがつかめた」という。

 同時に、このときの修習同期に大阪大学のボクシング部の元監督がおり、大阪でジムを紹介されてボクシングを再開。アマチュア時代の実績が評価されて東京の大手ジムとの契約もかなった。イソ弁ではプロボクサーとの両立など許されるはずがないと考え、即独を決意。「プロボクサーになるため」という、弁護士になる明確な理由を見つけることができた。

 坂本弁護士が見いだした弁護士になる動機が「プロボクサーになるため」であることについては、賛否両論があるだろう。

 筆者の肌感覚で言わせてもらうなら、特に東大出身者には、弁護士になった動機について、それなりの答えが出てこない人が少なからずいる。東大以外の国公立や私大の出身者で、強い動機を語れない弁護士はほとんどいないので、象徴的な現象なのだが、おそらく周りが当たり前に司法試験を受ける環境で、自分も当たり前に受け、当たり前に合格しているからなのだろう。

 しかし、そういうエリート弁護士が不誠実であるとか、依頼人の話をろくに聞かないというわけでは決してない。だからこそ迷いに迷う坂本弁護士の真面目さも、一定の理解を得ていいのではないかと思う。

 ところで、坂本弁護士はかつて司法修習生の間で有名になったことがある。刑事事件がらみの供託をしようとして拒絶されたため、法務局で大立ち回りを演じたことを自らのブログに書き、炎上してしまったのだ。

 坂本弁護士は愛嬌のある営業巧者といったタイプではないものの、小柄で口調も淡々としており、大きな声を出すような印象はない。だが、その時は「部屋中に響き渡るような大声を出したし、机も叩いた」という。

 刑事弁護では、場面によっては“剣幕で押す”手法が一定の効果を持つことは事実だ。「確信犯的な部分がまったくなかったわけではないが、感情で大きな声を出した面もある」という。

 いったいどんな状況だったのか。坂本弁護士によれば、法務局の職員に「法が求めていないことまで求められたことに腹が立った」そうで、また抗議によって、結局その職員は上司と相談し供託を受け付けた。以後は同様のケースでもすんなり受け付けられるようになったという。

■ 引退後のことは、引退後に考える

 弁護士業務のほうは、空白の1年間にボーイのバイトをしていたクラブの顧客に中小企業の経営者が多数いた関係で、中小企業法務の顧問契約が収入を下支えしている。

 一方、当初「新人王くらいは狙えるかもしれない」と思っていたボクシングは、4回戦で3勝2敗となったところで大手ジムを解雇され、別のジムに移籍。今も練習は週6日続けているが、プロボクシングは37歳が定年だ。今年34歳なのであと3年で否応なく引退である。引退後の弁護士としてのあり方については、「引退してから考える」という。

 弁護士を目指す人に対しては、「自分が迷いに迷っただけに、なぜ弁護士になりたいのか、どういう人間になりたいのかを真剣に考えてほしい」とメッセージを送る。「司法試験のために勉強したことは、弁護士でなければ生きないわけではない。食えなければ辞めてもいい、くらいの気持ちの余裕はあっていいと思う」そうだ。
(7月4日 東洋経済オンライン)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150704-00075217-toyo-bus_all&p=1


土地家屋調査士 大阪 和田清人(image)
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